プレスリリース
新横浜ラーメン博物館(横浜市港北区、代表取締役:岩岡 洋志)は、30周年を迎える2024年3月へ向けた取り組みとして、過去に出店した約37店舗の銘店が2年間かけ、3週間のリレー形式で出店するプロジェクト「あの銘店をもう一度」を2022年7月1日(金)にスタートさせました。そして2022年11月7日(月)からは、1994年のラー博開業時の8店舗が(現在出店中の熊本「こむらさき」を除く)、1ヶ月〜3ヶ月前後のリレー形式で出店する「あの銘店をもう一度“94年組”」がスタート。この企画も37店舗中、30店舗が出店し、30周年を迎える3月に向けて残りわずかとなりました。
そしてこの度、“94年組”第4弾 喜多方「大安食堂1994」に続く第5弾として2024年1月9日(火)〜2月5日(月)まで、札幌「すみれ1994」が出店します。94年組のコンセプトは1994年当時の味の再現。今回は30年前の濃厚味噌ラーメンが復活し、すみれから独立し、有名店となった弟子12名が期間中、日替わりで厨房に立ちます。詳細は下記をご参照ください。
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30周年だから実現できた“夢の企画”
●「すみれ」の歴史
東京オリンピックが開催された昭和39年、札幌「純連(すみれ)」は産声を上げました。創業者 村中 明子氏は、当時札幌を席巻していた「味噌ラーメン」とは違い「もっとコッテリしていて若い人たちが集まるような味噌ラーメン」をと思い、ほぼ独学で現在の味噌ラーメンを作り上げました。屋号「純連」は「若い人がたくさん集まる」という意味を持ち、純連と書いて「すみれ」と読みます。
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創業当時の「すみれ」外観
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創業者・村中 明子氏
昭和39年の開業当時は「純連」と書いて「すみれ」と呼びました。しかし、オープンして月日が経ち、看板の純連の上に書いてあったフリガナが、長年の雨風によって取れてしまい、本当の屋号を知らないお客様が、「じゅんれん」と呼ぶようになったのです。
その後、札幌屈指の人気店となった「純連(じゅんれん)」でしたが、昭和57年の6月末に、突然店を閉めることになったのです。それは明子氏が股関節亜脱臼になり、これ以上続ける事が出来なくなったからなのです。しかし、明子氏は諦めることができず、翌昭和58年に、約1年間のブランクを経て「純連」を再開しました。
この時、当時のお客様のほとんどが純連(じゅんれん)と呼んでいたため、「すみれ」とは呼ばず「じゅんれん」の屋号で再開することとなったのです。
その後、あとを継いだ長男の教愛氏が昭和62年に「純連(じゅんれん)」、平成元年には三男の伸宜氏が「純連(すみれ)」の名でオープンしました。こうして明子氏が作り上げた味は2つの屋号で現在まで継承されています。
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「純連(じゅんれん)」と「すみれ」
●ラーメン博物館への出店
1994年すみれがラーメン博物館に出店するまでの道のりは約3年、100回以上口説いての出店となりました。純連(すみれ)との出会いはラー博がオープンする3年前の1991年。ラー博の創業者である岩岡 洋志が、調査のため、全国を食べ歩いていた頃です。当時のメモが残っています。岩岡曰く相当な衝撃を受けたようです。
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1991年に書き記した岩岡のメモ
岩岡は食べた後すぐに「横浜でラーメン博物館を開業する予定があり、ご出店いただけませんか?」といきなり交渉をしたようです。もちろん門前払いでしたが、岩岡は「純連(すみれ)のラーメンは衝撃の味。これを横浜に持ってきたら絶対目玉になる!俺は諦めず何度も通う!」と断言したようです。
岩岡はまずは顔を覚えてもらうため、札幌に行くと5日間滞在し昼と夜毎日ラーメンを食べに行きました。そしてついに村中氏から「俺に何か用か?」と、話す機会が出来ました。岩岡はラーメン博物館の構想や夢を語るも、村中氏からは「うちは家族経営でやっている。前にも言ったがこの店で手一杯なんだ。味も門外不出。横浜でラーメン作るなんて、無理な話だよ」と断られました。
その後も村中氏が競馬が好きと聞けば、待ち伏せをして一緒に競馬に行ったり、食事に行くほどの間柄まで進みました。村中氏からも「なんでラーメン博物館をやろうと思ったのか?」といった質問が出てくるようになりました。
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岩岡と村中氏
そんな関係を2年ほど続けていたある日、村中氏から連絡があり「横浜で勝負してみたい。出店する方向で考える」という嬉しい知らせが来たのです。早速札幌に向かった岩岡でしたが、そこには浮かない表情の村中氏がいました。「岩岡さん、この前の電話の話はなかったことにしてくれ。家族を説得できなかった。申し訳ない」と、決まりかけた出店が白紙に戻ったのです。ラーメン博物館オープンまで7ヶ月を切ったタイミングでした。
岩岡は色々考えた挙句、腹を決めてある決断をしました。その決断とは「出店の返事がなくても店を作って出店できるタイミングまで待つ」という賭けに出ました。早速札幌に行き、村中氏にその旨を伝え、店舗の図面と、パースを手渡し、横浜に戻りました。
そしてその数日後、突然設立準備中の新横浜に村中氏が来られました。
村中氏は「岩岡さんが人生かけて勝負するラーメン博物館がどれほどのものか気になってね。その景色、俺も一緒に見させてほしい」と言われたのです。そして「家族の反対を押し切って出店する。だから申し訳ないが“純連”という屋号は使えない。平仮名の“すみれ”でもいいか?」岩岡は「はい!僕は村中氏のラーメンの味に惚れたんです!ひらがなの“すみれ”で来てください!」となり、出会ってから3年の歳月を経て札幌「すみれ」の出店が決まったのです。
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設立中のラー博に突然訪れた村中氏
●今だから言える当時の本音 「すみれ」店主・村中 伸宜氏
『最初は詐欺師かと思いました(笑)。しかし何度も何度も通っていただき次第に出店してみたいと思うようになりました。ただ、すみれの味は母が作ったもので、私の一存では決められないし、父と兄は大反対でした。反対したのは「絶対失敗する」という理由でした。
私はお客さんが来るかどうかという不安よりも、この味が首都圏で通用するのか試してみたい、そして兄のお店(純連〜じゅんれん〜)を超えたいという想いの方が強かったです。今考えればちっぽけなプライドですが、私にとってはラー博の出店が人生の大きな分岐点でした。』
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「すみれ」店主・村中 伸宜氏
●30年前の濃厚味噌ラーメンの復活
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30年振りに復活する濃厚味噌ラーメン
あの銘店をもう一度“94年組”のコンセプトは1994年当時の味。今回は、今よりも濃厚だった1994年当時の味噌ラーメンが28日間限定で復活します。
村中氏によると「30年前の味噌ラーメンは高度な技術を要するため、熟練の職人しか作ることができません。今回、私が期間中厨房に立ち、私が認めた弟子たちと一緒に30年前の味噌ラーメンを再現します」とのこと。
その濃厚スープは、中華鍋に生の味噌から火入れし、挽肉やにんにく、玉ねぎ、もやしを高温で炒め、とんこつ、魚介、野菜類で取ったスープを合わせます。コシのある熟成太縮れ麺は、濃厚なスープにも負けない味と弾力があり、特有のモチモチ感が特徴です。具材には2種のチャーシューと挽肉、玉ねぎ、もやし、ネギ、そして今や多くの札幌ラーメン店が取り入れている、最後に振りかける生ショウガ。
●すみれオールスターズがラー博に集結
今回の出店に伴い、店主の村中氏は期間中、新横浜に滞在します。そして、すみれを卒業して独立したお弟子さん達が期間中交代で厨房に立たれます!その名も“すみれオールスターズ”。以下の豪華メンバーが期間中交代で厨房に立たれます。
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すみれオールスターズがラー博に集結
・「すみれ1994」の更に詳しい情報はこちら
https://note.com/ramenmuseum/n/n76e3dbd92e4c
・過去のニュースリリースはこちら
https://www.raumen.co.jp/information/release/
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